引っ越し作業現場の成果主義

 引っ越しの段ボールも片付き、ようやく、普段の生活に戻りつつあります。
 今回の引っ越しは、重たい荷物もてきぱきと運んでいただけたおかげで、思った以上に早く片付きました。ただ、4年前に秋田に引っ越した時と比べて、作業員の労働条件が悪くなっているような印象を受けました。見積もりの時も、実際の作業の時も、仕事が終わったらスタッフの評価を求められるのです。「今から上司に電話するから、電話に出て、今日の私の仕事ぶりについて評価してほしい」と言われるのです。さらに、アンケートのはがきが送られてきたり… こんなことは、4年前にはなかったことです。すごく嫌なものを感じました。
 差をつけるための評価です。どうして、差をつけないといけないのでしょうか? ある人は〇、ある人は×と、差をつけて、×の人を排除していくとすれば、差別ではないでしょうか?
 頑張っている人が、高く評価されたほうが良い、その方が公平だと思われますか? 成果主義が導入された時、反対の声があまり上がらなかったのも、そのように考える人が多くいたからでしょう。
 しかし、たとえ小さな働きしかできなくても、その働きを感謝できたら素敵だと、私は思います。
 ガンジーに影響を与えた本に、ジョン・ラスキンの『この最後のものにも』という本があります。聖書に出てくるブドウ園労働者のたとえ話が土台になっています。朝から働いた労働者にも、最後の1時間だけ働いた労働者にも同じ1デナリオンという賃金を払ったという話です。無茶苦茶な話のようですが、人が幸せになるには、社会はこうでなければならないと、私は思うのです。
 そんなことしたら、次の日からはみんな夕方1時間だけ働くようになって、誰も朝から働かなくなってしまうでしょうか? そう思うとすれば、それは、今の競争社会の中で傷ついているからです。人は、本当に愛され、大切にされた経験があれば、私も人のために何かしたいと思うようになるものです。
 縁あって一緒に仕事をすることになった仲間であれば、あいつはできる、あいつはできないと優劣をつけて競うよりも、互いに助け合って、皆が少しずつでもプラスの貢献ができるようにした方が、全体としては大きな仕事ができるはずです。
 評価されるから頑張る・・というのは違うような気がするのです。ほめられても、ほめられなくても、誠実に働くことができる人が育っていくような、職場であってほしいものです。
 未熟な新人が入ってきても、その未熟さを受け止め、指導し、一人前に育ててこそ、職場というものではないでしょうか?

ガンジーは、教育について次のように主張しています。
「我々は、生活の糧を試験に合格することで得ようとします。これは、人々に非常に重大な悪影響を与えています。・・・試験に合格しなくても、学んだことが失われるわけではありません。・・・国に奉仕することが最終目的であればあるだけ、失敗しても失望する必要はありません。合格しても、失敗した人を見下す理由にはなりません。不健全な対
抗意識が入ってくる余地はほとんどありません。」「ガンジーの教育論」より。