報復の連鎖を断ち切るギフト経済の精神

「アムリットサルの虐殺では、人々は命を落としました。しかし我々は、すぐに自分たちの過ちを告白し、贖罪として断食をし、神に赦しを請うたのです。」(ガンジー

 インド独立運動において、集会中の市民にイギリス政府が派遣した軍隊が無差別に発砲したアムリットサル虐殺事件が起きたのは、1919年4月13日です。
 ガンジーは、4月13日を贖罪の日と定め、断食と糸紡ぎで過ごすように勧めました。抗議の日ではなく、内省の時としたのです。そして、悪に対して善で報いることを提案しました。
 理想論だという反論があるのは知っています。ならば、権利を主張しない、権利を放棄できる人間になる一歩として、ギフト経済の実践はいかがでしょうか? 見返りを期待しないで、与えることに徹するのです。与えることが自然界の法則だからです。命が与えられ、大地の恵みに生かされているのが、私たちです。そして、助けてくれる仲間も与えられています。そのことに気づいた人から、与える生き方を実践しましょうということです。与え損になってもよいのです。与えた相手がただ受け取るだけだったとしても、それは、その人の心に傷があったり、まだ充分に与えられていないだけかもしれません。その人もシャワーのように与えられるなら、やがては与える人に変えられていくことでしょう。
 小さな実践を積み重ねていく中で、大きなこともできるようになっていきます。ガンジーは、糸紡ぎという小さな実践を人々に勧めました。着るものがない人に衣類を提供するために、毎日1時間でも良いから、糸を紡いで服を作ろうと提案したのです。自分の時間を捧げて、糸を紡ぐ人々の中から、やがては、命までも捧げられる人々が誕生していきます。
 アムリットサルの虐殺に対して、報復という権利を放棄し、糸を紡ぐ行為によって貧しい人々を助け、自分自身を見つめる中で、憎しみを克服していきます。そのような約10年の準備期間を経て、1930年の塩の行進では、自分で紡いで織ったカディー(手紡ぎ・手織り綿布)を身にまとった人々が、殴られても殴り返さず、しかもひるむことなく海岸へ向かうのです。
 今はそこまでできなくても、与えることのできるものがきっとあるはずです。小さな愛の実践を今日始めることができたなら、この世界に小さな明かりがともることでしょう。