人間性なき科学

 ガンジーがあげた人類七つの大罪の一つに、「人間性なき科学」があります。
 科学が人間性を失うと暴走してしまいます。科学者は知的好奇心を満たしたい、探求したいという思いから、仕事を推進していくのでしょう。しかし、その知的好奇心の追求が、人々に多大な被害を与える可能性があるとしたら、自らの知的好奇心に蓋をする必要もあるわけです。それができるのが大人でしょう。
 科学者がよく使う言葉に「リスク(危険)とベネフィット(利益)」という言葉があります。多少のリスクがあったとしても、そのことによって得られるベネフィットが大きければ、推進する価値はあると言うのです。
 原発で事故が起これば大変な被害をもたらすとしても、その可能性が極めて低いのであれば、日々、電気がふんだんに使える生活がもたらす便利さが、その危険性を上回るというのが彼らの議論でした。
 ここには二つの落とし穴があります。可能性が低いのと、可能性がゼロであるのとは同じではありません。たとえ1000年に一度の大地震・大津波であったとしても、ひとたび起これば取り返しがつかない事態になるのが、今回の震災が私たちに教えてくれたことです。可能性がゼロでない限り、可能性の低さは除外して、被害の重大さというリスクと、便利さというベネフィットを比べなければならないはずでした。
 そして、もう一点は、便利さが本当に私たちにとってベネフィットなのかということです。便利が人々を幸せにしているでしょうか? 確かに人工呼吸器がなければ生きていけない人には、電気は必需品です。しかし、原発がなければ電気がゼロというわけではありません。原発が建設され始める前、1970年頃の生活は、豊かさが足りず、病気が蔓延する社会だったでしょうか?人々は不幸だったでしょうか? より多く、より豊かにを求めたことが、人をより幸せにしたのでしょうか?。ガンジーは次のように語っています。

今日、欲望を拡大させることに血眼になっており、しかも漠然と、自分たちは本物をこの世の本当の知識を増やしているのだと考えている人々が、後戻りして「我々を何をやってきたのだろう」と言うようになる時代が近づいております。文明はやってきて、去ります。我々が自慢げに語る進歩にもかかわらず、私は「いったい何のための進歩なのか」と自問せずにいられません。現代のダ−ウィンであるウォレス氏はいみじくも同様のことを言っております。素晴らしい発明、発見がなされた50年間の歩みにもかかわらず、そのおかげで人類の徳は1インチたりとも高められはしなかったと。お望みなら夢想家、予言者とでも呼べるトルストイも同じことを言っております。イエス仏陀マホメッドも、彼らの宗教は今日わが祖国では否定され、歪曲されておりますが、彼らも同じことを言っております。

 便利さに人の人間性を高める作用はありません。
 だから、哲学・思想・宗教が必要なのです。科学者こそ哲学をする必要があるのです。科学が人間性を失わないために